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出てみた

先日決意したとおり土曜日に家を出てみた。

毎週土曜日はだいたい録り貯めたアニメを消化して過ごしていたのだけれど、今日もちゃんと数本消化してから、思いきって3時ぐらいに外に出た。

好きなイラストレーターさんの展示を見に行くっていうなんだか洒落てる目的で洒落てる街まで行った。
急行に乗る必要もないので各停でのんびりと行くのが楽しい。

ただ、いざ展示スペースに入ったら、そこの知り合いらしき人達が団体で入ってきて、スペースも狭いため身動きができず状態。話も盛り上がってきて完全にアウェイ感が漂ってきたのでなんだか悲しくなり撤退した。

半分くらいしか見れなかったし、ゆっくりできなかったし、でもそんなに見たいなら時間ずらしてまた行けばいいのにそうしなかった自分の本気度を思い知って、ああ…家に帰ろうと思った。家は最高…。だけどすぐに帰らず、違うルートで帰ったりちょっとコーヒー飲んで行ったら少し元気が出たので、元気よく本屋で立ち読みして帰った。本屋と電気屋は最高…。

明日は友達に会う予定があるので、きっと充実した日になるはず。

見ること

帰宅途中に、( ゚д゚)ハッ!外に出ないと…!って急に焦りだした。
知らないことも見たことがない物も多すぎる。

部屋の中は好きだけど、部屋の中にあるものしか見ることができない。
美しいと思った物をあげていこうと思っても、見たことが無いものはあげることも想像することもできない。
だから何か美しいものを作りたいと思ったとしても、自分の知ってる範囲の美しさでしか考えることができない。

自分の知らないこと見たことがない物って数えきれないぐらい存在しているけど、普通に生きていく間に見るもの出会うものは最低限の数であって、当たり前だけど見に行くっていう行動を取るか取らないかでその数は一気に増えていくんだなと。

デザイナーは「よく見ること」が大切だよと教わってきたけれど、私が見てきたものは物の写真だったり絵だったり映像だったりって立体を平面にした物がほとんどだったと思う。立体を平面にしたものを元に平面を作っていたのかと。
平面で表現されている元の立体、そのものを見ていない。
物の質感も、触った質感じゃなくて見た目だけで質感を理解したつもりになっているんじゃないだろうか。
触った質感を表現しようっていう、触覚を視覚にするようなアーティスティックな方向に行き過ぎる必要は無いけど、物が押されたらどうへこむのかとか、弾力や毛の寝具合を表現するには触ることも必要になりそう。

立体の本物っぽさだけを抽出して平面に落としこんでいくと大体、色・表面の凹凸・光・影・模様っていう目に見える部分に分けて見るようになっていって、立体がどんどん分解されていくような感じがする。
その分解されたパーツを組み合わせて立体を作ろうとした時に、平面では本物っぽさに近づけるのが限界で、元の立体の本物っぽさっていう形がわかってないと作れない。分解は簡単だけど再構築は元の形を知らないと難しい。

立体として存在できる純粋な要素だけを抜かすのが3次元を2次元にする方法だと思うけど、それその物はつまり写真で、絵画とかはそれに2次元でしかできない表現を加えて3次元に近づけるんだと思う。
学生の時、写真に撮った人を元に絵を描いても、出来たものは写真の絵でしかなくて、実際に人を見ながら描いた絵はその写真の絵と何が違かったんだろうか。よく美術の授業やデッサンでも「空間を描く」だとか「見えない奥側を描く」ってやるけど、見えないものを描くってどうやるんだろう。

物として3次元に存在していると思わせるのは、物と物の反射だったり近くと遠くの影の濃さや輪郭のぼやけ具合だったり目が勝手に補完している映像だったり、物単体ではなくて「そこにある物」の「そこ」っていう環境も関係しているんだと思う。前後左右から物の構造を見るっていう見方と、物がある風景を見て物の形を認識するっていう見方があるんだと思うけど、今までどっちの見方もあまりして来なかったなと思う。目に映った物を見たと思っている感じ。

もっと色んな物を見て触って知ってストックしておきたい。

4月

もうすぐ4月。

まだ寒い日がちらりほらりとあるけど、あっという間に暑くなるんだろうな…。適温の季節が長く続いてくれたらいいのに。

夜が暖かくなると、気分がとてもよくなるので、変質者が出てきやすい季節だということに納得できる。
凍えるくらい寒いといくら変質者でも、バカなことやってないで家にいようって、冷静にかつテンションが低い考えに至るんじゃないだろうか。

ケーキ

無性にケーキを食べたくなることがあって近くのケーキ屋に行くのだけれど、買っている最中は、1個じゃ満たされない…今ならホールでいける…っていう気持ちになってしまい、でもいろいろ考えて2、3個に抑えるというパターンができている。

家に帰って1つ食べるとそれで満足できてしまい、ホールを食べる勢いがシュン…と縮んでいくのがわかる。高校の時はケーキバイキングに夢を抱いていたけど、思っていたよりケーキってそんなにたくさん食べられない物なんだなと気付いた。

美味しい物は美味しいと思える適量で食べるのが一番だなと、年と共に食い意地を張らなくなったような気もする。それでもまだ焼肉とか、肉だ肉だとどか食いができる胃を持てていると思う。

時間

時間が無いからとやらないでいることが沢山あるのだけれど、時間はあるけど言い訳してやらないだけだということに気がついている。

それはきっと、ほんとにやりたいことじゃないからやらないでいるんだと思う。自分が何を優先してやっているのか、その対象が気になるけど、それもまたやりたいことの代替品だったりするのでよくわからない。

多分なにかやった時に、これがやりたかったんだと思った物が正解で、やりたいという意思はそれほど必要じゃなく、やってどうだったかという感想の方をもっと重要視していけばいいんじゃないかなと思う。

ハッピーエンド

今朝見た夢がハッピーエンドで、起きた瞬間幸福感に包まれた。よかった〜〜〜!ってなる瞬間って生活してると時々あるけど、ほんとそのぴったりが起きた瞬間というのは初めての感覚だった。

今日見た夢も三部構成で、最初は不動産屋さんに怖い部屋を紹介されて内見を済ませていた。手作りの神棚が壁に設置してあって、違う壁にはOne for ALL. All for ONE. って手作りタペストリーが飾ってある。部屋の説明で、夜20時過ぎにテレビを見ることを禁止って書いてある項目の所を、他の部屋の方もみんな、みんな20時以降は見ていないんですよ?ってねちっこく説明された。嫌がらせに、この部屋宛にピザ頼んで逃げる。たしか204号室だった。部屋を出た後にちょうど知らない親娘が内見に入れ違いで入ったところで場面が変わる。

どこかの校庭で、燃えながら隕石が落ちて来る。最初はうまく避けられなくて、熱風を吸ったところまで覚えているんだけど急にまた隕石がくるぞっていう話になって、あっこれ二回目だ!という体験をする。二巡目の世界か〜と思いながら今度はうまく角に隠れることができる。

そして最後の場面は、カルガモの親子を、なんとか街中を移動しながら目的地まで連れていくという設定。微笑ましいのだけれど、カルガモの数が多く、10mぐらいの列になって感覚だと1時間ぐらいずっと歩く。子どものカルガモがフラフラで、街中だから自転車も通るわ猫も見てるわでずっとハラハラしながら隣を歩く。見覚えのある道に出て、突き当たりを右に曲がると下り坂になっていてその先が河原になっていた。

やっと着いたよ!河原だよ!!!って子どものカルガモたちの顔を覗き込んだら一斉にパァッ…!と嬉しそうな顔をして、転びそうになりながら坂道を駆け下りてゆき、川にダイブしたのを見てやったあああ!!!ってなった瞬間に起きた。こんなに最高な気持ちで目覚められて幸せだった。

ただ思い返すと、パァッ…!って嬉しそうな顔をしたカルガモはどう見てもアヒルだった気がする。どっちでもいいけど。

ゆるす

10代の頃は特に、他人にイライラしたりむしゃくしゃしたり悲しくなったりして感情が荒ぶっていたのだけれど、20を過ぎて22,23になったぐらいから少なくなったなと思う。もちろん周りに大人が増えてきたからなのだと思うけど、自分の中で何かが荒ぶりそうになった瞬間、「こういうこともある、そういうものとしてゆるそう」と思うことでスッと溜飲が下がる。

「ゆるす」って「許す」であったり「赦す」っていう、まるで自分が神かというぐらい偉そうな考え方なのだけれど、なんでそういう事を言うかなァァアアアアアア!!?とか、はぁァァァアア!!??とか、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!とか、クッッッッソッッッ!!!!とか、心に渦巻く罵詈雑言の塊がスッ…と消えて、
「………よっし。」ってなる。

人はみんな自分の価値観を持っていて、その価値観はバラバラで大切なものもバラバラだから、自分の基準を相手に押し付けるのは良くない。そう思ってても、価値観を押し付けてくる人はどこにでもいて、それに対して自分の価値観がいかに正しいか主張しても本当に理解はされないしできない。だからお互いに、「そういう考えもあるのか、個性か」とゆるすことができたら、無駄な争いはなくなるんじゃないだろうか。

そうは言っても、10代のころの本音のぶつかり合いで何か得られたこともあるんだろうし、ゆるすのは20代になってからでいいのかもしれない。何か得られたことはあったんだろうか…。なんであんな事を言っちゃったんだろうな…あの子はきっと傷ついたよな…とか謝りたい思い出はたくさんある。謝りたいことはあるけど、昔言われたことをずっと恨んでいるっていう記憶は少ない。心の奥深くにしまってあるか、お互いに子供だったというのが今ではわかって、今のあの子は昔と違う子だっていう感覚になっているからかもしれない。

「ゆるす」ってなんだか「諦め」にも似ているけれど、「期待をするのを諦める」って言うといよいよ何様感が出てきて間違った方向に行ってしまうかもしれない。小さなことは「ゆるす」でいいけど、どうしてもゆるせないことは言ってしまった方が平穏すぎるよりも何かもっと違う何かが生まれるんじゃないだろうか。20代でゆるせないことは30代になったときにゆるせるようになるのかも。

ただ、「何かをゆるした」と公言してしまっては、上から目線の神みたいなやな奴だなと思われるので気をつけたい。

どうも海が苦手というか、海で泳げる気がしない。そもそも海で通用する泳ぎができない。砂浜で何か作るのは楽しいけど。

プールならどこかの端にさえたどり着ければ陸に上がれるけど、陸の反対側は沖っていうのが怖い。クロールの息継ぎができないことと、バタ足をしても対して進まないのがネック。
なぜか平泳ぎはできる。

早起き

最近というかここ2日間、早く目が覚めてしまうので、いつもより30分ぐらい早く家を出てみている。

10時始業でいつもは9時30〜40分ぐらいに会社に着いているので、昨日おとといは9時すぎに会社に着いた。

早めに出てみて思ったのは、時間に余裕があるので心にも余裕が生まれるということと、電車も駅も人がいつもより3割ぐらい多いということ。混んでる。電車がきつい…!ストレス…!

ゆったりとした電車を取るか、電車は我慢して会社に着いてからゆったりするのを取るか…

15分ぐらい早めならもしかしたら丁度いいかもしれないので、試してみよう。

高校生

今朝は久しぶりに確か高校の夢を見て懐かしかったんだよなと今思い出したのだけれど、さらに今朝は夢をメモったことを思い出した。



謎が深まる

たぶん高校パートの夢じゃなくて、トランプをしていたパートの夢の方。
四人で卓を囲んでいて、正面の人が隠してたカメラを使って映像を見てイカサマを働き、私はトランプで負けているんだけど、左隣りの人がイカサマだ!って見つける夢だった。「裡前に」というのと「下克上」は不明。

フィグというのは会社の先輩の猫の愛称で、馴れ馴れしく愛称で書いてしまっているのはともかく、似ている子猫が出てきて風呂場の水道から水をがぶ飲みしているという内容だった。確か。

メモするのちょっと楽しい気がするので今日も見れたらやってみよう。